ミゲル・デ・セルバンテス(1547-1616)の不朽の名作に登場する主人公ドンキホーテとサンチョパンサは、永遠の人間性の表現であり、スペインとスペイン文化の象徴とされています。そのため、スペインのあちこちに、このふたりの人物像や画像があります。なかでも有名なドンキホーテ=サンチョパンサ像は、マドリードのエスパーニャ広場に建てられたセルバンテス記念碑のものです。その記念碑は、セルバンテス没後300年を記念し、コンクールによって選ばれた芸術家の手で作られました。
このエスパーニャのエントランスは、セビーリャのエスパーニャ広場にヒントを得て作られました。エスパーニャ広場は、1929年セビーリャで開かれたイベロアメリカ博覧会の会場に設けられました。北端の半円形の建物は、エスパーニャ宮殿と呼ばれ、ローマ風の大理石円柱、アラブ風のれんが壁、ルネッサンス風の化粧タイルや陶器の塑像などが渾然ととけあって、きわめてスペイン的な特色を作りだしています。この美しい建物の1階部分を参考にし、両側に塔を配して作ったのがこの入口です。
スペインのどこの町にも、個性豊かな商店街が並んでいます。このエスパーニャ通りは、バルセロナの中心街を念頭において作られています。バルセロナの市内でもひときわ目立つのは、町の中央に位置するカタルーニャ広場から港まで南東にのびているランブラス通りです。レストラン、バー、市場、各種の店が立ち並び、街頭のカフェにはたくさんの人が集い、大道芸人がいたるところで芸をくりひろげています。ここには、活気ある都会生活のにぎやかさと楽しさがいっぱいです。
マドリードの目抜きの大通り、アルカラ通りとプラド通りの交差点にあるシベレス広場は、ロータリー中央の「シベレスの噴水」の美しさによって知られています。シベレス(キュベレ)は小アジアのフリジアに起源をもち、ギリシア、ローマの神話にも出てくる農業の女神であり、「病を治し、戦争のとき民衆を守る」とされました。従者としてライオンをしたがえる姿で表現されるのがふつうです。ここでも二頭のライオンに引かれた戦車の上にすわっています。
西暦2XXX年の近未来を舞台とした、レトロフューチャーなスチームコースター「アイアンブル」。その入り口となる外観デザインは、かつてのスペイン・アランフェス王宮の正面を再現しています。アランフェスは、マドリードの南50キロにある小さな町ですが、ここにスペイン王室代々の離宮があります。王宮はフェリペ2世の時代フワン・デ・エレーラが設計した簡素な様式の建物でしたが、数回にわたり火災にあい、ブルボン朝のカルロス3世の時代1778年現在のかたちに再建されました。
マヨール広場(プラサ・マヨール)とは、大広場の意味で、スペインの多くの都市や街の中心に設けられた、大切な公共の場です。そこは、街の公式行事や祝祭典、闘牛などがおこなわれると同時に、人々が憩う場所でもありました。今日でも、スペイン各地にマヨール広場があり、中小都市では依然として街の中枢としての機能を果たしています。数あるマヨール広場の中でもマドリードやサラマンカのものは特に有名です。それらを参考にして、ここパルケエスパーニャにも独自のマヨール広場を作りました。
マドリードのマヨール広場中央には、フェリペ3世のブロンズ製騎馬像が立っています。マドリードが首都に定められたのは、1561年、フェリペ2世の時代でした。しかし、その後、一時宮廷がバリャドリードに移されたため、実際に首都としての歴史がはじまったのはフェリペ3世治下の1606年でした。1620年にはマヨール広場が完成しています。フェリペ3世騎馬像は1616年に制作されましたが、現在の場所に戻ってきたのは1848年でした。このマヨール広場にも、王の騎馬像を置きました。
グラナダとは、スペイン語でザクロの意味です。ザクロはギリシア時代に西南アジアからイベリア半島にもたらされました。ギリシア神話で豊穣のシンボルであったザクロが、スペイン南部の歴史的都市の名となり、市の紋章ともなりました。グラナダ市内からゴメレスの坂を登って、イスラム時代のアルハンブラ宮殿に向かうと、三つのザクロの彫刻がある門にぶつかります。これが宮殿への入口のひとつで、"グラナダスの門"と呼ばれています。
セビーリャのアルカサルの背後に、むかしながらの町並みをそのまま残したサンタクルス街があります。この地区は、イスラム時代からユダヤ人の住んだ一角で、真っ白な漆喰の壁にとりかこまれた細い路地が入り組み、家々の窓は色とりどりの花で飾られています。路地のところどころに、小さいながら美しい広場があり、街頭のカフェで人々が憩いの時をすごしています。アンダルシアで、もっともロマンチックな街並みの雰囲気を、再現しました。
オレオは、スペイン北西部のガリシア地方一帯によくみられる穀物倉庫です。形は、わが国弥生時代の穀物倉庫によく似ています。ガリシア地方はスペインでも、もっとも雨が多く、年間2000ミリを記録するところもあります。高床式のオレオ独特の形は、この雨をもたらす湿気に対する工夫です。床の支柱にはネズミ返しがつけられ、屋根には十字架が飾られることも珍しくありません。 このオレオは"フィエスタ・デ・ガリシア"開催を記念し、1996年3月20日ガリシア州知事マヌエル・フラガ・イリバルネ閣下により、スペインーガリシア州と州観光局から公式に寄贈されたものです。
バルセロナの「平和の港の広場」やマドリードの「コロン広場」をはじめとして、スペイン各地にコロンブスのアメリカ航路発見(1492年)を讃える記念碑が立っています。バルセロナは、コロンブスが第一回航海から帰国後、その成果をイサベル女王に報告するために訪れた地です。それを記念して、1888年の万国博覧会の際、高さ60メートルの記念碑と、その上の6メートルのコロンブス像が建てられました。パルケエスパーニャのコロンブス像はこれを参考に制作しました。
この広場の周辺の家々は、スペイン南部地中海沿岸のマラガの町並みにならって作りました。マラガは、はじめフェニキア人の植民地として建設され、その後カルタゴ人、ローマ人、イスラム教徒などの支配を受けた長い歴史をもっています。現在では、国際的リゾートとして有名な「コスタ・デル・ソル」(太陽の海岸)の中心都市で、スペインが生んだ偉大な画家パブロ・ピカソが生まれ、幼少の時をすごした町として知られています。アンダルシア地方独特の城壁とスペイン瓦の家々がつづきます。
フランスとの境に接する、スペイン北部ナバラ地方の首都パンプローナの南東にハビエルという村があります。その近くに立つハビエル城は、11世紀に作られた中世の典型的な城郭です。また、天正18年(1549年)鹿児島に上陸し、日本布教の道をひらいた聖フランシスコ・ザビエル(ハビエル)生誕の地としても有名です。この城は、11世紀の砦を中心に、16世紀に増築された居城と、三つの塔より成っています。当博物館は、城郭の左の礼拝堂をのぞいた、ザビエル生誕時の姿を復元したものです。館内にはアルタミラ洞窟壁画をはじめ、スペインの歴史、文化に関するものが展示されています。
ローマの遺跡
コロシアム
今日のスペインの言語と文化の基礎は、紀元前3世紀から7世紀あまりにわたってイベリア半島を支配したローマ人の時代につくられました。半島全体はヒスパニアと呼ばれ、ローマの重要な属州のひとつでした。そのためスペインの各地には、古代ローマの遺跡が数多く残されています。この円形劇場は、三重県と姉妹提携しているバレンシア州のサグント(ローマ名サグントゥム)のものを、また、その西にひろがる遺構は、セビーリャの北西にあるローマ時代の大都市イタリカの遺跡の一部を、それぞれモデルとして構成しています。
南スペイン、アンダルシア地方の古都コルドバは、ローマ時代も重要な都でした。しかし、8世紀のイスラム時代になってからは、11世紀はじめまで、後ウマイヤ朝カリフ国の首都として、ヨーロッパ随一の文化的繁栄を経験しました。全長12kmの城壁にかこまれた市内には50万人が住み、数百のイスラム寺院や多くの宮殿、学校、図書館、市場が立ちならんでいました。城壁に設けられた門のうち、いくつかは現在でも残っています。それらを総合して、ここにも"コルドバの門"を作りました。
トレドをかこむ防壁の東北角の門は、「カンブロンの門」と呼ばれています。カンブロンとはクロウメモドキを意味し、門の周囲にクロウメモドキの木が茂っていたのがその名の由来といわれています。トレドの防壁はイスラム時代に築かれ、その後度々修復されましたが、現在のカンブロンの門は1576年に建設されたもので、ルネッサンス様式の影響を受けています。この映像劇場は正面にこの門のイメージをとりいれて"カンブロン劇場"と名づけることにしました。
カタルーニャの建築家アントニオ・ガウディー(1852-1926)が、実業家グエル侯爵の支持を得てバルセロナに建設した数々の作品は、それまでにない自由な形と色彩によって、近代建築史のなかで特異な地位を築いてきました。1914年に完成した「グエル公園」は、ガウディーの形と色彩が環境全体に展開された幻想的な庭園で、バルセロナの名物のひとつとなっています。"ダルのファンタジーワールド360"の建物は、この公園のイメージを参考にしたものです。